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☆毎日の幸せは         スプ~ン1杯が丁度良い☆


by staygold3103
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命日

3月28日・・・・・・それは私の親父の命日です

だがそんな親父の事を私は良く知らないのだ。私は母子家庭で育った。


元々親父は日立製作所に勤務していた。

子供の頃アパートに家族5人で暮らしてした。当時は一般的な家庭であろう。

まだ私が幼いある日親父は突然会社から帰って来た、それ以来仕事に行かなくなった。

自宅に籠もる様になり病院で精密検査をした所・・・・・・脳に傷がある事が判明した。

それが外傷なのか?産まれ付きなのか?は親父の父の爺さんにも判らなかった。

只・・・・・働けなくなった事実のみが残った。

生活に困窮した私達家族は母親の実家の離れで暮らし始めた、生活保護を受けながら。

爺さんは自分の息子をなんとか社会復帰させようとしたが・・・・・出来なかった。

そんな爺さんが亡くなった後、親父の実家は全てをこちらに任せっきりになる。

親父の病状は良くなる所か益々悪化して行く一方となりついに入院する事となった。

30年近くだ。。。


私達は母親の実家の土地に親父の爺さんの援助で家を建て暮らし始めた。

しかし生活は苦しくそれは大変なものであったのだ。

やりたい事も・・・・・欲しい物も・・・・・全て我慢した。仕方の無い事だった。

それ以上に私は自分自身を押し殺していた。

何だったか?は忘れてしまったが子供の頃に何かやった時周りの人間に言われた。

『あそこの家は親父がああ言う人だから』『あそこの家は保護家庭だし』・・・・子供心にとても屈辱だった。

正直、必要以上に優等生を演じていた様な気がする。

『俺は俺だ!何が有ってもそれは親父とは別の事だ!』そんな反骨心を抱えながら思春期を送った。


姉の就職が決まり私達は生活保護から脱出した、だがそれは同時に大きな負担も抱える事に。

今まで親父の入院費は無料だった・・・・今後は支払いをしなければならない。

自分も進学する高校を決めねばならない時期だった、迷わず工業高校を希望した。

担任も友人も『何故?進学校行けるのに・・・』そう言われた。

『俺はもう勉強は沢山だから』そんな感じの返事をしていたが・・・・それは嘘だ。

大学に進学する余裕など無い。就職に有利な職業高を選択するのは自然な事なのだ。


働き始めて自分が先ずしなければならないのは住む家を造る事。

土地は借り物、家も借りた金で造った家。どうにも肩身が狭いし何時までも居られない。

20歳で住宅ローンを組んで家を建てた、支払いは大変だったが気持ちは凄く楽になった。

『これからは普通の生活をしていける』 普通に生活すると言う事は本当は凄い事なのだ。

それまでは『何不自由なくして来た奴達にだけは絶対に負けない』・・・・妙なプライドを持っていた。


そんな凝り固まった自分を解きほぐしてくれる人にも出会えた。

彼女に出会い・・・・・恋をして・・・・・自分の家庭を持とうと思った。

自分はごく普通の家庭を知らない、今度は自分で作る・・・・・当時の一番の夢でした。

だが・・・・・

相手の親兄弟は難色を示した。

それは私の親父の事だった。結婚すれば面倒を見る事になるのではないか?それはダメだ!

もちろん自分にはそんな事をさせる気は毛頭無かった。しかし・・・・

親であれば自分の娘に苦労させたくないのは当然であろう。気持ちは良くわかる。

『私が家を出て生活するなら許す!』そう言われたが家のローンもありそれは出来ない。断った

『ならば絶対に娘に世話はさせない、こちらの家族にも迷惑掛けない』一筆書いてくれと言われる。

もちろん書いても良かった・・・・だが

そこは自分のプライドが許さなかった、書いたら今まで自分を全て否定される気がした。


そんな中、彼女は強いマリッジブルーに陥った。自分の責任である。

その後2年位そんな状態が続き『こんな状態では娘は嫁に出せない』と言われ自分は決心した。

別れる事にした。本当にバカな決断だし・・・・・何より無責任だ。

しかし相手の家庭がどんどんバラバラになって行くのを見てられなかった。耐えられなかったのだ。

自分は暖かい普通の家庭と言う物を知らない。向こうの家庭は理想的な家庭だった。

それを壊してしまったのはやっぱり自分なのだろう。自責の念に耐えない。

自分も普通の家庭に育っていたら・・・・・・いやそうなら出会っていないかもしれないな。


しばらくして親父が救急搬送されたとの連絡が来た。危篤だと。。。。

病院に行き担当医に話を聞くと腎臓がやられていて回復の見込みは無いとの事。

ICUに向かったがもう親父の意識は無かった。

担当医に『治療方針はどうしますか?』と尋ねられた。

こんな時TVドラマなら『どんな事しても、どんなにお金掛かっても助けてください!』と言うのだろう。

しかし・・・自分はそうは言えなかった。

『普通の治療はしてください。只、延命措置はしなくて良いです』 酷い人間だな。私は。

自分は親父との想い出とかも無い。

唯一あるのはアパートに風呂がなく親父と歩いて銭湯に通った記憶位だ。

でも・・・・どんな親でも苦労させられても自分の親だぞ!良いのか?それで!

心の葛藤は尽きなかった。。。。

せめても!との思いから最後まで世話だけはしようと考えて病院に通った。


ある日何時もの様にICUに行くと親父は居なかった。

ナースステーションで問い合わせると一般病室に移ったとの事。

奇跡的に回復したのだった。普通は喜ぶものなのだろうが・・・・気持ちは複雑だった。


それから数年達また病院から呼ばれた。

今度はうちでは手に負えないので転院してくださいとの事。末期癌だった。

新しい病院は遠かった。末期患者のせいなのか治療方針も担当医もコロコロ代わった。

その度に病院に呼び出された。仕事中でもお構いなしに。。。。

『治療方針を変更したいのだが・・・』 

『こんな処置をしたいのだが・・・』

医療過誤の問題もあるのだろう、その度に署名・捺印をさせられた。

『危篤です、直ぐ来てください』 何度も呼び出された。

正直疲れていた、クタクタだった。周りは『大変だな、頑張ってな』とか言ってくれたが

もうこの頃になると自分の気持ちも変わっていた。

こう言う事は『頑張って!』とか『大変だ!』とかそう言う事では無いのだ。そんな次元の事では無い。

家族の面倒を見るのは自然な事なのであり、それが普通の事なのだ。


ある日何時もの様に仕事に行くと病院から電話が来た『危篤なので直ぐ来てください』

同じ電話は何度も来た。その度に上司に断って病院に駆けつけた。

その日も病院に行って見ると・・・・・・親父は既に逝っていた。見て直ぐに判った。

担当医は自分が来たのを知るとやって来て一通りチェックした後に『○時○分、ご臨終です』と告げられた。

もう既に死んでいても形式的に家族が来た時間にする物なのか。そんなもんか。。。

結局、親父は家族も兄弟も誰にも見取られずに亡くなった。

そんな親父の前で私は心の中でこうつぶやいた

『親父、これでお互いやっと楽になれたな』 偽らざる心境だった。


病気になるのは止められない、それで苦労するのも仕方が無い。全ては宿命なのだ、逆らえない。

実際苦しい時はそんな風に思えなかったけれども・・・その時は素直にそう思えた。



そんな親父が亡くなってから今日で7年になる。

お墓に行って線香の1本でも手向けて来るつもりだ。。。。




by staygold3103 | 2010-03-28 00:53 | 雑談